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月曜日が日曜日の場所で

11-18 November 2011

 


 
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Piotr Bosacki, "Utter Rubbish", animated film, 2011. Courtesy Galeria Stereo, Poznań.

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ピョートル・ボサツキ

これから、私の最新作についてお話します。どれだけ「真面目な話」や、「純粋 に抽象的な」構造について話していても、好むにせよ好まざるにせよ、私は、自分 が絶えず冗談を言っているような印象をもってしまいます。(これは大真面目な話 です)。 話し言葉(人間の話し言葉)の発達は、動物界における偉大なる進歩でしたが、 とするなら、ジョークというものは、言語の進化のるつぼだと考えることができるの かもしれません。ジョークがジョークとして成立するのは、それが言語の未知の領 域から発生するからです。ジョークとは、いわば理にかなった不条理です。わかる けれども、同じくらいわからないものなのです。 仮にジョークを言う機械を作ろうとするとします。常識的には、「そんなの無理。ジ ョークが概してその定義の枠を壊してしまうものであるなら、それを一体どうやってプ ログラムする? どんなコマンドを使う?」と考えるはずです。しかし一方で、疑 いようもなく、ジョークは身体的な現象であるのです。私がジョークを理解するやり 方は、自然なものであって、決して超自然なものではありません。とするならば、冗 談を生み出す身体システムが存在するという可能性はあるでしょう。理屈からい えば、思いがけない偶然から、つまり、そうとは知らずに出来てしまうことはあるか もしれません。私がこうした機械を発明する可能性もあります—もし私が、炎に 手をかざしたり、ザルを水に浮かべてみようとする「やってみて考える」ような子供 で、「それがどうやって動くのか」を調べたいばかりに、純全たるメカニカルな興 味から部品や機能を特別な意図もなく組み立てることができたなら、考えもしな かった可能性を持つ機械を作り上げることができるでしょう。この可能性はジョー クというものそのものです—未知の物理学的な領域から発生するわけですか ら。身体における脈絡のない交流こそ、進化の前提条件なのです。 芸術作品とは、考えもつかないようなそうした可能性をもった機械です。芸術作 品は(たとえどんなに真面目な作品であっても)、必ずジョークとなんらかの文法 上の共通点があります。 これらのことをふまえると、言語が私の興味の中心にあることがはっきりします。こ こでもっとも重要な点は、「世界のかたち」に従って語られた言葉が形作られて いるのではなく、語られた言葉に従って「世界のかたち」が規定されているのだ、 ということです。この明快なモチーフは、比較的最近(100年ほど前のどこか)に なって西洋的思考のなかに現れてきましたが、ユダヤ神秘主義の流れにおいて は常に議論されてきたものです。ラビ・アキバがかつて言ったところによれば、 「文章に書かれて明確に表現されたことでなければ、それについて考えることも できない」のです。この言葉自体、すでにジョークめいていますが、どこかウィトゲ ンシュタインのようでもあります。 私のフィルム3部作である『Shekhinah』、『Dracula』そして『Embracing Life』 における文学的側面は、古いユダヤ教のレトリックに基づいていると言えます。 しかし、それが私の宗教的背景を表しているというわけではありません(そんなも のは存在しません)。私にとっては、古ユダヤ教における言語が、物理的世界を 描写するのにもっとも相応しい言語に思えた、というだけのことなのです(少なくと も今のところ、その他に自然に思えるものが浮かばないのです)。 映画『Total Rubbish』 の原則はこうです—「文字を好きなように並べてみた ら、その配置から意味が立ち現れてくるだろう。なぜなら、配置されたものはなん であれ、それ自体に意味があるからだ」。


ピョートル ボサツキ: 1977年生まれ、ポズナン、ヴロツワフ在住。