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VillaTokyo

 

月曜日が日曜日の場所で

11-18 November 2011

 


 
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Kasia Fudakowski, You’re my wife now, 2011. Photograph from www.scattercushion.tumblr.com. Each sculpture, when clicked, has a corresponding video link. Courtesy the artist and Chert, Berlin

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カシア・フダコウスキ

自己複製すらできない、着飾ったアメーバよ! あらゆる細胞のうち、最も下等な 者よ!  私生児ですらなく、ただ屑から生まれ落ち、何も所有しない者よ ! 哀れなピケ隊のお前は、言うべきことは十分にもちながら、己の声を恐れている。 立ち上がれ、そして腰を落ち着けよ! 煉瓦を頭に打ち付けられたような瞬間 が再現され、小さなブロックの一つ一つが、格子状の笑顔になるよう並べられて いる。硬い壁の連なりに、新たな夜明けの悪党の輪郭がぶつかって、粉々に砕け ようとする。あるいはモザイク状の穴、それはスーパーヒーローの証として、強さと 愚かさのマンガ的ロゴとして、腕、脚、暴力がすべて合わさり、2次元との隙間で ぺちゃんこに潰れる。こうした2次元の悲劇はほとんどさらされたままだ—ピク セルはレンダリングされず、単なる空間としてまとめられている。そして、どうしたわ けか、損傷は勝利なのである。ムーブメント、人格、そしてふたたび暴力というもの が、完璧に構成されている。コンマ。孕まされた沈黙。 そしてドタバタ劇には何か、熱を帯びたものが潜んでいる。哀れだが、どこかポジ ティブな人間に対する忍び笑いもある—結婚式で一番大きな帽子、EDへの さよならのキス、乗り過ごすのではなく、間違った方面へと、間違った電車に乗っ てしまうこと。観客は嘲笑する、だが一体誰に向かって? それは上手い対応な のか、それとも見当違いのものなのか? マテリアルは指先によって乱されるが、 どういうわけか手品師の手によって、優雅な儀式(または偽りの器用さ)が執り行 われる。巧みに何か大きな建造物を造ることだって可能だ。なぜなら、そこにある ものは荒廃だからである。しかし我々はその荒廃を、呆れるほどの贅沢と認識し ているかもしれない。 木屑が、傘状に貼付けられている。自己流のオールバックから一筋垂らした前髪 は、いっぱいの湿気を前にしても、乾燥して格子状にスタイリングされている。我 々のいるこの場所では、襟元を詰めた司教が、べたべたと粘っこく、まるで見境 がない信者に寓話を垂れるように、文章が読まれている。ヒンジは、まるで暴力と いうものの狂気の沙汰だ。前後して容赦なく動き回っても、どこにも辿り着けない。 セックス、そしてセックスをしないこと。小さなボールベアリングが、容赦なく何度も押 しつぶされる。だらしなく転がり廻るグリースの美しさ、そして動き。頬を寄せ合う、 正確な流動性、または流体の精度だ。汗を滲ませ、決して干上がることはない。た だ消耗するだけだ。この身体には、足が一本余計に追加されている。これはスペ ア、エクストラのもので、それ自体、だからこそ哀れな支えなのだ。「孤立無援」と 呼べるかもしれない。または、グラグラと不安定な口髭だ。微調整の可能性を残し つつ、なんとか間に合わせようとする。 つまりこれは、屑が影からゆっくりと這い出して来て、さらに大きな何かを形づくろうと する時期なのである。その瞬間に聞こえてくる言葉は、「あの彫刻の大理石が好き だ」というものだろう。そしてあなたは喜びを噛み締めながら答える。「いや、あれは 丸めたハムだよ」。マテリアルの偽りが明らかになる一瞬のうちに、羞恥もまたイメー ジのなかで反復される。嘘、母音と形容詞が耳ざわり良く響き、圧縮され、計算され る。だが結局は、温かみを残さない。ヒエラルキーを定義しようと、測定しようとして、 手が動く。その手はつねに何かに触れ、完璧な写真映りのために位置を変えようと するが、ここでは指紋取りのブラシは役立たずだ。指紋は、名前やロマンスの記憶を 後に残さない。このマンガ的な手にそなわる冷たさは、写真の光沢と同様のものだ。 だが、塗り立てのペンキの粘り気が後に何を残すのかは、はっきりとわかっている。 その表面にキスをすれば、唇がくっついてしまうのだから。

ヘレン・マーテン


カシア・フダコウスキ: 1985年生まれ、ベルリン在住。